Lv.1
前の記事にちなんでもう一つ忘れられない思い出を。

というかそのことでやっぱり「そんな不幸を背負ってしまってかわいそう」みたいに見られたりだとか、時には田舎独自のデリカシーのないババァからモロにそういうことを言われたりしたこともありました。
(釣りに行こうとしたらつどいの前あたりでカブに乗った見知らぬババァが俺のチャリに近づいてきて「あんた伊藤さんとこの子だろ?ほんまにかわいそうになぁァ!!」と、なんかよくわからん説教みたいなことを一方的に言われたことが一回あったのだ。10分くらい。)

それで当の本人である俺は実際どうだったのかと言うと・・・まぁそれを話そうとすれば母が亡くなった後のこと以外に亡くなる手前のことも説明したくなるし、中途半端にここでは語るまい。でも、何が一番辛かったのかというと、意外かもしれないけども「食生活」だったのだ。今でも聞かれたら迷うことなくそう答える。なぜ食生活が辛かったのかというと、母が死んでも当然誰かが御飯を作らないといけないわけで、当然それはばぁちゃんの仕事になった。姉もまだ中学生だったし。

しかしばぁちゃんにとっての食事の常識は世間一般の常識とはかけ離れていたのだ。
俺も中学生とは言え,さすがにもうある程度子供ではないし、好き嫌いも贅沢も言うつもりもない。
味云々にケチをつけるつもりもない。だが、その「常識のなさ」に延々と苦しめられることになるのであった。


【非常識その1:脂攻め】

ある日、「ご飯できたけん食べない」と呼ばれテーブルにつくと、そこには餃子とステーキが並んでいた。
・・・・・。まさに閉口。もうね、見ただけで胃が重いですわ。
それぞれ単体で出すなら何も問題はないけど、なぜその二つをわざわざ組み合わせるかね?
どこで口や胃を休めろと言うんですか。自分で食べるとしても餃子→米→肉→米→餃子→米→肉→米→餃子→米→肉・・・・
みたいなのってないやろってわからんかね?栄養のバランスもクソもないわい。

しかしうちのばぁちゃんはそれに何の疑問も問題も感じていないのだ。わかってないのだ。
「こんなもんありえるかぁ!!!」と怒鳴り散らし、皿を床に叩き付けたりするわけにもいかないので、せめてもの抗議の意志表示として餃子には一切手をつけずにその日の食事を終えた。

「餃子いらんの?」とばぁちゃんに聞かれたので、「常識がない」とだけ言い残し、不機嫌をあらわに2階へ上がったのだった。


【非常識その2:コロッケ攻め】

ある日、「ご飯できたけん食べない」と呼ばれテーブルにつくと、テーブルには大きな皿にコロッケが5つ並んでいるだけだった。
そのとき俺は家族の中で一番最初に食卓についたのだが、ということはえ~と・・・・・・5人いるので一人一個という計算でOK?

つまりこれ一個をおかずにごはんを食べろと?
つまりコロッケ→米→コロッケ→米→コロッケ→米→コロッケ→米→コロッケ→米・・・
黙々とそんな単調作業して何が楽しいねん。内職かよ。つーか戦時中か?
さすがに俺も「これ一個をおかずにご飯を食べろと?」といってしまった。
そしたらばぁちゃんは「ばぁちゃんは料理できんけんしょうがないんでわ・・・」と・・・。わかってる・・・。

そんなの俺もわかってる。俺だって贅沢を言うつもりはない・・・。
言いたくもないのは山々や・・・。
けどさすがにコロッケ一個をおかずに飯を食うなんていくらなんでもあんまりだろ・・・?
だからといって俺だってばぁちゃんを責めたくない・・・。
料理が苦手で毎晩何を作ったらいいかばぁちゃんはばぁちゃんで悩んでるのくらいわかってる・・・。
そんな葛藤。その葛藤が改めて母の死を強く再認識させる。

もうね・・・味以前に食欲を失せさせる要素が多すぎる・・・・。
そんな逆境にも負けず、わずかなおかずで米をバカ食いするという特技をこの苦労から生み出した。
貧乏くさいことこの上ないし自慢したくもない。なにげに俺の早食いの原因はこれだったりして。


【非常識その3:レタス攻め】
この前の帰省のとき、俺がブログに「もう随分鮎を食べてない」みたいなことを書いてたこともあり、それを盗み読みしていたお父さんの気遣いもあって帰ってきたら鮎の塩焼きをたらふく食べられたのだ。あれはうまかった。「なんちゅうもんを食わしてくれたんや・・・・」って感じだった。

しかし、一つ気がかりが・・・。鮎の塩焼きの横にレタスが添えられていたのだ。

伊藤家では鮎に限らず、秋刀魚の塩焼きにもレタス、ハンバーグにレタス、ステーキにもレタス、オムレツにもレタスなど、ありとあらゆるものにとりあえずレタス。場合によってはスライスしたトマトも並んでる。並べられたそれらを別においしくもないのにしぶしぶ残さず食べるのはドラクエのレベル上げのときの感覚に似ている。徳島にはスダチという名脇役がいながら、レタスなんかを添えられて鮎や秋刀魚も怒っているだろう。

なぜここでレタスなのか?それは簡単に言うならば見栄えと栄養価のためだけだろう。

メインのおかずだけを皿に盛るだけでは殺風景だということと、ついでに野菜も食べなあかんからという気遣い。
しかし、見栄え的にも栄養価的にも応急処置的にレタスを添えたところでそこまで食卓に彩りが広がるとも、栄養のバランスが取れるとも考えにくい。どっちにしろばぁちゃんの自己満足的な面がほとんどだ。

それは当然俺にとっての不満で、別に美味くもなんともないので食べるのもめんどくさいし「もう無くてもえぇやん」である。
食後に野菜ジュースでも飲んだらえぇやん。だからちょっとだけ言ってみた。

「レタス無理やり添えたって大して栄養価的にも意味ないよ。」
「そんなことない( `ヘ´)」


そんなことあるんじゃぁぁぁっ!!!!!!!!

餃子とステーキを同時に出すような人が栄養価について語ったところで何の説得力があるだろう。
バランスもクソもない食生活とそれがもたらす極度のストレスによりこの当時は口内炎がない時期の方が少なかった。
よってドレッシングもかけずにむしゃむしゃと生のレタスを毎日のように食べていたのだった。
食物繊維よりビタミンをくれ。


【非常識その4:カレー攻め】

ここまででお分かりの通り、ばぁちゃんは料理が苦手だ。レパートリーも少ない。レパートリー全部使いきっても一週間持たないかもしれない。

母が亡くなった直後の冬休みなんかは本当に地獄だった。1週間に5食はカレーである。焼き飯は週に3,4食。冬は鍋があるので水炊き、キムチ鍋、すき焼きなどのバリエーションがあるが(やがてそれもすぐに飽きるのだが)、鍋がシーズンオフになると非常に厳しい。夏場なんぞ半田そうめんが主食だった。

レパートリーの超ヘビーローテーションで、もううんざりで、とにかく何か違うものを食べたいからと言って6月にシチューを食べることになったりもした。気にいらなければ自分で冷凍食品やインスタント食品を適当に料理したりもした。だからレトルトカレーも、もう飽きることに飽きるほど食ってた。

ばぁちゃんが「晩御飯何にしようか?」なんて聞いてくるけど、逆に「じゃあ何が作れる?」とこっちが聞きたいくらいで、数少ない作れるとわかっているレパートリーの中から「アレは昨日食べたしアレも3日前食べた。カレーは先週3回は食べたし・・・もううんざりやけどまだ日にち置いたほうやからそろそろアレにしようか・・・」という妥協に妥協を重ねたメニュー選び。「何にしようか?」と聞く側も聞かれる側もただただ憂鬱。

例えばある日曜の風景。

「・・・・・・・。」
「・・・・・・・ヵッ・・・・・・・・・・・・・。」(←入れ歯を口の中で動かす音)
「・・・・・・・。」
「・・・・・・。・・・・・・ヵッ・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「ヵッ・・・・・。・・・・・・・・・・。・・・・・・・もう今日カレーでえぇで・・・・?」
「・・・・・・・・・・・・。ハァ=3・・・・・。・・・・うん・・・・・。」
「・・・・・・・・それしかないんでわもう・・・・・。」

もう』ってなんやねん。
喋る気も失せさせるほど精神を蝕む。これぞカレー攻めの脅威。



ここに挙げたのは数年間続いた食卓のうちの一部にすぎず、語りだせば他にもいろいろとエピソードがあります。ポテトサラダをおかずにごはん食べさせられたりだとか、卵を使ってないただの粉の塊みたいなお好み焼き食べさされたりとかね。ついにはおかず食べるのが嫌になり、納豆ご飯オンリー、たまごかけごはんオンリー、お茶漬けオンリー、のりたまごはんオンリーみたいな日もザラにあった。「晩御飯何にしようか?」と聞かれたら「自分でなんとかするからいらん」とか言って。

そんなむちゃくちゃな食生活が続くうち、胃が空っぽなのに全く食欲がわいてこない、もう学校から家に帰っても晩飯の時間が近付くと憂鬱な日が続きました。

解決策があるとすれば、ばぁちゃんに他にも料理を覚えてもらい、レパートリーを増やし、まともな付け合せ、常識というものを理解してもらうのが一番であるが、ただでさえ家事の全てがばぁちゃんに任せっぱなしなのにそんなことをお願いするのは酷だったし、もう食べる側が我慢するしかなかったのだ。一連の常識なき食卓に、文句をつけようと思えばいくらでもつけれたはずだが、ばぁちゃんだって料理を作るのが下手なことくらい自覚してるだろうし、それでさらに俺にダメ出しされたりしたらかなりモチベーションも下がるだろう。そんな悪循環に走るよりかは現状維持のため、我慢するしかなかったのだ。

我慢すればするほどますます飽きてくる。
うんざり。
でもまたさらに我慢する。
そしてもっともっと飽きていく・・・。
しかしそれにもまた我慢するしかない・・・。

結局これはこれで出口のない悪循環ではあったのだが。


まぁこんな風に苦汁をなめた時期というのもあったわけで、もう一種のトラウマです。
今住んでるとこは食堂が付いてるんだけども、そこの飯がどんだけうまく感じたことか。
ここで「昔のこと」みたいに言ってるけど、今帰省しても相変わらず無意味にレタスが添えられた料理が出てきたりするんだろう。
そういうこともあって最近は「好きなタイプは?」と聞かれたら迷わず「料理が上手な人」と答えております。
なにもキム兄や平野レミの作るような手の込んだ料理じゃなくてもいい。まともな付け合せで、それなりに飽きないくらいのレパートリーを持ち合わせてくれる、常識ある料理のある生活がしたいと常々思っております。

結婚しなかった場合自分でもそれなりに飯を作れるようにならんとな・・・・。
そういやこの超ヘビーローテーション地獄の時期、「まともな食事を自分で作れる生活がしたい」とか思って、本気でシェフになろうかと考えた時期すらあった。料理士専門学校とかいったりしてね。


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イメージ図

どんな好きな食べ物でも、毎日それしかなかったらいつかは100%飽きるだろう。「飽きる」ということは動物の行動学的にも実は重要な役割を果たしております。例えば、同じ食べ物ばかりを食べてたら栄養が偏るので、食べ飽きることでそれを防いだり、遊びや運動などでも同じ動作を繰り返していると体の同じ部位に継続的に負担がかかるため、飽きることで故障を防いだりするとも言われております。お父さんやじいちゃんはばぁちゃんのHell of the Super Heavy Rotationに文句一つ言ってなかったことから(我慢していたのではなく、俺が「もう耐えられへん。限界や」と愚痴をこぼしたとき「どこの家もこんなもんだろうよ?」とか言われたのだ)、そういった人間として重要な感覚が欠如していると言えますね。
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